【語り継ぐこと】第一工場の建設について

■語り継ぐこと Vol.4

語り部
浅野志津雄(箔一相談役)

金沢箔の文化を担ってきた方に、歴史の話をお伺いしています。
今回は新しい箔打ち紙が開発されたころの話を、当社相談役に聞きました。


第一工場建設の頃

第一工場は、1989年に竣工しました。 これは、当時の伝統工芸の企業としてはとても大きな投資でした。
挑戦的な事業ともいえますが、ただ私たちの感覚では必然的な出来事でもありました。 そのころは、金沢箔工芸品の販売は順調に伸びてきており、生産能力が不足していました。

また、箔打ちの工場が七塚(かほく市)にあり、箔貼り・工芸品づくりは山王(金沢市北部)で行っていました。場所が離れていたため、行き来の負担も少なくありません。さらに、当時の山王の工場は住宅地にあったため、作業につきものの騒音などを考えると、これ以上の拡充が難しい状況にありました。

断切金箔
当時の伝統工芸の業界では珍しかった、最先端の生産現場の建設だった。


縁があって、現在の安原工業団地へ

そうしたことがあり、新工場の建設が必要となってきました。
土地の候補はいくつかありました。例えば、西武緑地公園の横、犀川沿いの土地なども有力候補として挙がりましたが、結局、分譲を始めたばかりの安原工業団地に落ち着きました。

そのころは、この土地は大変に辺鄙なところでした。 周囲にはなにもなく、蛙がよく鳴いていたことを覚えています。しかし、今となってはそれが良かったといえるでしょう。箔一では、その後、第二工場、第三工場、第四工場、第五工場まで建設をしていきましたが、すべて隣接する土地に作ることができました。これだけ交通の便が良いところで、まとまった土地を探すことは今となっては困難でしょう。


手づくりの経験が、機械化したうえでも役に立った

第一工場ができたことで、本社機能と生産現場を一つにまとめることができました。会社全体として効率化が進みました。
このころは、手作業から機械への過渡期ともいえます。 機械というものは、人間の身体の延長です。人の手でやってきたことを分析し、パターン化して再現するのが機械化をすすめる上での考え方でした。ですから、もともと職人として手作業でものづくりをしてきた人間は、機械も上手に使えました。理屈が分かっているからです。

例えばですが、箔打ち職人は箔がまんべんなく伸びるように打つ場所を絶妙に移動させていきます。この所作を研究し、機械で同じような打ち方を再現する研究を行いました。職人が長年の修行によって身に着けた技術、経験や勘といったものを分析し、機械化していったのです。

この時生まれた原理は、現在でも十分に通用しています。 ただ、やがて世代が変わっていくと、機械でしかものづくりをしたことがない人も増えてきます。第一工場ができて機械化がすすみ、効率よくモノづくりをすることもできるようになりました。その一方で、手を動かして物を作ってきた経験を受け継いでいくことも、大切なことではないかと思います。

断切金箔
落成記念パーティーの様子。多くの来賓を招いて盛大にお祝いをした