街づくりへの想い
Thoughts on town planning
2020年7月20日 金澤しつらえ やなぎ庵にて

街づくりへの想い 対談 長瀬 輝雄  様

金沢東山・ひがしの町並みと文化を守る会 理事
東山菅原神社奉賛会 理事・事務長
※役職は2020 年7月時点のものです

聞き手:浅野達也(箔一 代表取締役社長)

厳しい決めごとを、きっちり守ることの大切さ。

私たちが、ひがし茶屋街で店を持つにあたり、長瀬さんには本当にいろんな面でアドバイスをいただいてきました。まちづくりに対する感性が鋭く、勉強になることばかりでした。今日は、長瀬さんが街づくりにかかわってきた経緯や、次世代に託す思いなども聞かせていただければと思います。

この対談のために、ひがし茶屋街の変遷などをまとめた資料を準備してきたんです。ここは時代ごとの芸妓の在籍数や、タバコ・米、散髪代などの物価も記してあるんです。

これは、すごい資料ですね。長瀬さんは、まちづくりのリーダーとして経営感覚も秀でていますが、文化人や詩人としての素養も持たれている。

(ひがし茶屋街にある)菅原神社に黒松と赤松がありますが、これが、まるで夫婦のように支えあって神社を守ってくれているように感じました。これを「良縁の松」と名付けたんです。私なんかが、畏れ多いですがね。婚姻や仕事、友人関係など諸願がかなえられるようにと思ったのです。

それも、歴史に精通していて裏付けがあるから、説得力がありますよね。そういった知性を感じさせることころが、長瀬さんのリーダーとしての魅力でした。

「金沢東山・ひがしの町並みと文化を守る会(以下、守る会)」の会長になったのは2013年でした。役を受けるというのは難しくてね、なりたいと思ってなれるものではない。あの時は、複雑な経緯があって、浅学菲才の私などに声がかかったのです。会長として、2年間務めさせていただきました。

この地域には素晴らしい人材がいらっしゃいますから、その中から一人を選ぶのは難しい。長瀬さんは、若手から人気があったとも聞いています。期待する声も多かったのではないでしょうか。でも、会長職は2年間だけだったのですね(編集注:体調不良のため2015年退任)。とても強く印象に残っています。特に2015年3月14日の北陸新幹線開業を直前に控えたとても大切な時期でした。

あの時は、先のことは千思万考で、どうなるかだれも想像がつかなかった。

しかし、長瀬さんは、きちんと将来像を描いていたようにも思います。

意識の高さが美しい街並みを作る。

いやいや、本当にわからなかった。私が大切にしてきたことは、決めごとをきちっと守るということでした。

確かに、ひがし茶屋街には、のれんの色や大きさ、ロゴの場所、行灯の大きさなど、本当に細かな規制がありますね。何よりすごいのは、みながこれをきちんと守っていることです。

ひがし茶屋街に来た観光客の中には、ここは映画のセットではないか、と言う人もいるんです。そのくらい、統制がとれた景観なのです。あるお店からね、四季に応じてのれんの色を変えたいと依頼がありました。それもわかるんです。のれんはお店の顔ですから。でも、我慢してもらいました。決まりですから。

そういった決めごとも、ほとんどが自主規制ですよね。罰則を設けて強制しているわけではないから、ルールというよりむしろモラルの問題ともいえます。だから、ここにいる人たちが意識を高く持って、決めごとの意味を理解したうえで、守っていかなければならない。

私が会長をやっていたころにね、その思いをまったく理解もせずに、店をやろうという人もいました。強引に出店しようとされたから、守る会が団結して反対運動をしましたね。それは、大変な苦労でした。

ひがし茶屋街には、この町にふさわしくない店や、商品は扱わないという了解があります。少し前には、物販店そのものも歓迎されていなかった印象もあります。私たちは、いま、いくつか店を持たせていただいています。特に、長瀬さんが会長を務められていた時期に計画した店が多いのですが、そのことについて、葛藤はありませんでしたか?

箔一さんは、事前のプレゼンテーションが素晴らしく、説得力がある。だから信頼できるのです。ここで商売をする人はね、あくまで私見ですよ、儲けることを優先するようではだめです。きちっとしたことをやっていれば、「やがて思いがけない利益がついてくる」というくらいのゆとりある経営感覚を持っていただければ、と願っています。

私たちは、長瀬さんが理解してくれることがすごくうれしかった。地元の人たちの思いを尊重してやってきたが、長瀬さんは私たちを認めてくれ、計画をいつも喜んでくれましたね。

この、旧諸江屋さん(現「金澤しつらえ」)も、リニューアルされて、本当に素晴らしいお店になりましたね。扱っているものも一級品で、素晴らしい伝統工芸は、見ているだけで目の保養になります。ここは金沢市指定保存建造物ですから、維持することにも大変な苦労があるでしょう。大したものです。

歴史的な建造物を守るには、負担がかかるのも事実です。でも、だれかが引き受けないといけないですよね。だから私たちも、要望があれば、引き取り手のない建物を受け継いできました。その際にも、200年間の歴史があるわけですから、その存在価値を考えなければいけない。私たちの所有物というより、大切な街の資産をお預かりするという気持ちで運営しています。

23年かかった重要伝統的建造物群保存地区(以下重伝建)への取り組み。

お互いに守るべきことはきちっと守るという意識が大切です。

だから、意識の高いところと組んでいくべきなんです。私たちも、考え方を変えなきゃいけない。本当にこの街を守りたいのなら、守れるだけの力を持たなきゃいけない。じゃあ、力があるのは誰なのか。この街に縁があっても、個人事業主や小規模の企業体ばかりでは、太刀打ちできない相手もいる。しがらみで、ルールが曲がることだってある。それなら、大きな企業さんの中でも、きちっとやってくれるところ、同じ志を持ってやれるところを巻き込んでいったほうが、この街を守ることにつながっていく。

古い建物には、修繕は必要だし、費用が掛かるから個人では抱えきれないケースもある。放置すれば廃墟になるし、不本意な企業に買われる可能性もでてくる。だから、地元の有志企業が所有するのは、この街を守る意味でも有効だと思う。そのうえで、活用の仕方や、店子については、街の人にゆだねてもいいじゃないか、とも思っている。

これまではね、守る会は、歯止めをかけるだけの役割だった。出店したいという企業を審査して、イエスノーをつけるということをやっていた。でもね、これからは、理想の街づくりを掲げて、そのためにはどんな企業に入っていただくのがふさわしいか。そういう考えで、こちらから誘致してくるような、そんな動きだって必要になる。

何か月に一回でも、集まってお酒を飲むだけでもいい。町の人たちは、林さんに集めてもらって。企業の人たちは、こっちで声をかけて。お茶屋さんに行ってもいいじゃないかと思う。難しく考える必要は、全くないですよ。

そうですね。それに最近はね、上の人たちも変わってきている。昔はもっと保守的だったけど、今では企業の人たちとも一緒にやっていきたい、という考えの人も増えています。だから、これから変わっていくと思いますよ。

決めごとに込められた、ひがし茶屋街の「志」や「意識」。

ひがし茶屋街は、みなさんが大切に守ってきた街だからこそ、次の世代にもちゃんと理念を受け継いでいかなければなりません。今年迎えるひがし茶屋街創立200周年は、その一つのきっかけになるのではないでしょうか。

この街には、本当に長い歴史があります。守る会ができてから20年ですが、その前にも180年間、この街を守ってこられた方がいらっしゃいます。そうした、多くの人たちの思いにも、感謝しています。

重伝建に選定されるまでにも、皆さんの大変なご苦労があったと聞いています。

重伝建の取り組みは、実は40年以上前からやっていたんです。1949年(昭和24年)に日本最古の木造建築物だった法隆寺金堂が火事になり、壁画が焼失しました。これがきっかけで、文化財保護法ができた。1975年(昭和50年)に改正され、伝建制度が生まれたんです。その当時、金沢市行政機関は、このひがし茶屋街を重伝建選定するために、1977年(昭和52年)に積極的に動きました。

それでも、指定、選定を受けることはできなかった。

当時の人たちは、少し焦っていたのだと思います。いろいろ理由はありますが、つまるところ、選定によって課せられる規制のことなど、住民とのコンセンサスのとり方がうまくいかなかったのだと思います。

確かに、重伝建になれば、不自由にはならざるをえないでしょうね。

それに、歴史と言っても、この街では簡単ではないのですよ。ここは茶屋街です。こういうところには、秘め事もあるものなんです。歴史を受け継ぐことも大切ですが、でも全部は言えないんです。表には出さない、出せないことだってある。そういうデリケートな部分も、反対された理由でした。いま、まさにこの建物、当時は諸江屋さんですが、そのご主人が東廓組合長でしたよ。

その後、実際に指定を受けたのは2001年(平成13年)、山出市長の時でした。

山出さんはね、反対していた住民とも根気よく話をしていました。コンセンサスを得るために、勉強会と分科会を数ヶ月も重ねたりしてね。それで、ようやくみんな納得して、合意書に署名捺印してくれたんです。それを提出して、重伝建に選定されました。最初の取り組みからは23年かかりました。

それも、プラスに考えることもできると思います。その期間で、機が熟したということではないでしょうか。私は、長い間、北陸に新幹線がなかったことだって、よかったと思っています。そのおかげで、都会の影響をあまり受けず、独自の文化を育んでいくことができたのですから。

ここは、本当に恵まれていますよね。いま、全国に120地区の重伝建がありますが、石川県は、8地区も選定されています。これは、全国最多です。特にね、お茶屋として登録されているのは少ないんです。県外では、京都の祇園新橋と福井の小浜西組しかない。とても貴重なものなのです。

金沢には、ひがし茶屋街と主計町地区がありますから、全国4地区のうち2地区がこの浅野川界隈にあるということになりますね。

山出さんは、次代に遺すための大きな仕事をされました。東山・ひがし茶屋街の重伝建選定、金沢駅や金沢21世紀美術館の建設など、北陸新幹線金沢開業までに、すべて完成させていかれた。

そうした苦労があったから、北陸新幹線開業後の観光ブームがあったわけですね。若い人の中には、この状態が当たり前だと思っている人もいますが、そうではないですよね。先輩たちの努力があったことを、きちんと伝えていかないといけないですよね。

決めごとに込められた、ひがし茶屋街の「志」や「意識」

長瀬さんのような方がやってきた仕事を、これからは若い人たちが担っていかなければなりません。次の世代の人たちに伝えたいことはありますか?

私はね、決めごとは、決めごとしてきちんと守る。それが大切だと考えています。これまで、まちづくり協定を4回変更しました。これは、金沢市行政機関と地域との協定を結ぶわけですから、権利者住民の合意が必要です。権利者には、県外の方もいます。この人たちにも説明して、合意書を集めます。規定では8割以上の合意が必要なのですが、最近は意識も高まっており、ほとんど全員が賛成してくれています。そうやって、決めごとを作っていくのです。決めごとは、時代に合わせて変えていってもいい。でも、決まったことはきちんと守っていってほしい。

ひがし茶屋街は、みなが合意して、自分たちに対し、あえて高いハードルを課しているというところがある。だから、それを守る側にも、意識が問われます。決めごとの意味や趣旨を、自分たちなりに理解し、なぜそのようなになったのかを考えることが大事だと思います。

山出さんはね「景観は文化であり、条例は金沢の景観を守る志である」と言っています。また、画家で芸術院会員でもある、故東山魁夷さんは、金沢を訪れた印象として「東山・ひがしは素晴らしい環境とそれを守る住民の意欲がある、これを盛り上げれば日本でも有数の美しい町にできる可能性がある。」と述べています。

そうですか。決めごととは、まさにその「志」や「住民の意欲」ということですね。こういったものこそ、受け継いでいくべき大切なものなのだと思います。
本日は本当にありがとうございました。