【語り継ぐこと】縁付と断切金箔について

■語り継ぐこと Vol.1

語り部
浅野志津雄(箔一相談役)

金沢箔の文化を担ってきた方々に、歴史の話をお伺いしていきます。
今回は昭和30年代現代的な金箔の手法である断切りが生まれた頃の話を、当社相談役に聞きました。

職人たちが集まり、互いに技を盗みあっていた

昭和の初めの頃は、箔打ちは一つの工房に多くの職人が集まって行われていました。
みなで肩を並べて打っていると、腕の良いベテランと、技術力の低い若手などの差がはっきりわかります。
当時は、若手であっても先輩から教えてもらうことなどできませんでした。
だから、意欲がある人間は上手な人のやり方を目に焼き付けて、必死に技を盗んでいました。 
職人ごとに様々な箔が作られており、金箔ばかり打つ人もいれば、真鍮やアルミを打つ人など、それぞれが得意な箔を作っていました。

こうした状況は、昭和30年代のころに大きく変わりました。
「蒸着」という金属のメッキ加工の新たな工業技術が確立されたのです。これによって、仏具などを効率よく着色できるようになっため箔の需要は一気に縮小しました。
特に、洋箔(真鍮箔)を作っていた職人たちの仕事は大きく減っていったのです。
 

縁付き金箔

寺社仏閣の修繕に金箔の注文が殺到

一方、昭和36年には親鸞聖人七百回大遠忌が行われました。これに伴って全国で寺社仏閣の修繕が盛んになり金箔の注文が殺到しました。
当時、金箔を打てる職人は限られていたため、これらに対応しきれない状況が生まれていました。

金箔の注文を待っていただく一方で、洋箔(真鍮箔)を打つ職人たちには仕事がありません。
こうした状況を改善したいと、私(相談役)の父が社長を務めていた浅野製箔などが中心となって断切り金箔の技法の開発に取り組みました。
これは、現代的な金箔の作り方で、今では主流となっている作り方です。
 

現代的な金沢箔としての、断切りの技法

当時、浅野製箔の社長であった浅野太一は、以前からグラシン紙にカーボンを浸透させた打ち紙の開発を行っていました。
箔打ちには箔打ち紙が必要です。これは、雁皮紙を灰汁や柿渋、卵白などに浸して作るもので製作期間は半年以上となります。一方、グラシン紙の箔打ち紙は3~4日でできるため、生産効率が飛躍的に高まります。また、箔打ち紙を用いた打ち方では箔を一枚ずつ切り揃えるのに対し、グラシンの際は1束(約1000枚)単位で箔を切ることができます。こうして、品質を安定させながら、生産性を大幅に向上させたのです。

この手法は箔業界に広く浸透し、主に洋箔やアルミ箔を作る際に用いられていました。ただ、金箔だけは和紙の打ち紙が用いられていました。

金箔の需要が高まったことをきっかけに、この新しい技法で金箔を打つことに挑戦したのです。この試みに成功したことから、金箔の生産効率が高まっただけでなく、より多くの職人にも仕事が入るようになりました。
この手法は現在では主流となり、金沢市が独占的な生産地となった背景にもなっています。

現在、箔打ち紙を用いる打ち方を「縁付(えんつけ)」。グラシン紙を用いる打ち方を「断切(たちきり)」と呼んでいます。
断切金箔が打たれるようになって、多くの職人が技術のさらなる革新に努めたことから、現在ではほとんど品質の差はなくなってきています。
実際に、箔工芸品を作っている人が両者を比べてみても、ほとんど区別はつかないといいます。
 

断切り箔

やがてあぶらとり紙の開発へと。

縁付と断切には、それぞれ優れた点があります。文化的・歴史的な側面では縁付の技術を残していくことは大切なことですが、断切の技法がなければ、今日のように金箔の文化が広く受け継がれていくこともなかったでしょう。

断切りが主流になっていくのに伴って、困ったのは「箔打ち紙」を取扱っていた商人でした。使い終えた箔打ち紙は、化粧紙として京都の芸妓や役者たちに人気がありました。しかし断切の技法では、かつてのような和紙の打ち紙は使いません。箔打ち紙の流通が大幅に減ってしまい、需要を満たせなくなっていたのです。催事などに出掛けると、「箔打ち紙はないか」と声をかけられることも増えていました。これは、やがて箔打ちの技術を応用した新しい文化である「あぶらとり紙」の開発につながっていきます。